荒巻 慶士

UPDATE
2019.05.26

その他

天皇制再考

 新元号が、令和と決まり、新たな時代が始まった。

 裁判所に提出する書面に、「令和元年」と書いてみて、気分が変わるのだから、不思議なものだ。

 かつてない10連休。この間、天皇や皇室に関して、連日に渡り報道がなされ、これほどに注目を集めたのは珍しいことだった。依頼者からもらったメールにも、一般参賀に出かけたと言葉があって、こうした時代の節目にあたり、天皇制について改めて考えさせられた。

 

 憲法上、天皇は政治性を持つことはできないこととされている。天皇は日本国の象徴であり、主権は国民にあることを、その第1条は定める。天皇のなしうる行為は、国事行為といって、判断の伴わない形式的なものに限定されている。

 それでは、退位・即位に際しての発言は、どうか。

 これが憲法の列挙する国事行為でないことは明らかだ。かといって、「象徴」は黙して語らないことしか許されないのか。そういう問題であるというわけだ。

 結局、話していることの中身が問題とされざるを得ないのだろう。政治性と切り離されていて、象徴として許されるもの。

 

 宗教性についても、皇室は神道の伝統の下にあるわけだが、「象徴」という国の制度に位置づけられる以上、政教分離原則の下では宗教性を持つべきではないことになる。そうなると、天皇の行う祭事は、皇室の私的領域でなされていると理解されることになる。

 しかし、天皇の私的領域とは何か。

 例えば、天皇には、職業選択の自由や居住・移転の自由といった憲法の保障は及ばない。女性は天皇になれず、皇室は男女間の平等も享受していない。国民と同様の権利は認められておらず、その私的領域すら曖昧なのだ。

 

 世論調査によると、国民の多くは今の象徴天皇制に肯定的であるという。確かに、昭和から平成、令和と流れた時代、制度はうまく機能しているように見える。ただし、先に述べたとおりに、象徴という捉えがたいものを正しく捉えて、知恵と深慮をもって接することを要する制度なのだと改めて思う。

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