後藤 慎吾

UPDATE
2020.02.03

企業法務関連情報

スチュワードシップ・コードの改訂がもたらすもの

先日、「The Finance」という雑誌に寄稿するため「スチュワードシップ・コードに関する動向と実務対応」と題する記事を書きました。3月上旬に発行されるそうですが、ウェブサイトでも公開されますのでご興味のある方はご覧ください。

 

スチュワードシップ・コードは、機関投資家が、投資先企業の持続的成長を促し、顧客・受益者の中長期的な投資リターンの拡大を図るためにとるべき行動規範を示したものです。2014年に政府の成長戦略の一環として策定され、2017年に1回目の改訂が行われ、現在2回目の改訂案が公表されています。

 

今回の改訂案で注目されるのは、機関投資家が負うスチュワードシップ責任の内容としてESG要素を含むサステナビリティ(中長期的な持続可能性)の考慮を行うべきことが明示されたことです。

 

ESGのEはEnvironment(環境)を、SはSocial(社会)を、GはGovernance(統治)を意味します。かかる改訂は、機関投資家は投資判断や投資先企業と対話をするにあたって、企業がどのように統治され、またその活動が環境や社会にどのように影響を及ぼすのかについて考慮するべきであるという考え方が資本市場において急速に支持を得てきたことを踏まえたものです。

 

伝統的にはESGは投資活動との関係で使われてきた用語ですが、私たち個人を含めたあらゆる主体との関係で用いられる用語として、我が国においてもSDGs(Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標))が一般的になりつつあります。SDGsは、全ての者にとってよりサステナブル(持続可能)な将来を実現するための17の目標を示したものであり、2015年に国連総会で採択されました。

 

投資家も、企業も、政府も、私たち個人も、すべてがこの地球上に存在し、地域社会や国家、国際社会その他の多元的なコミュニティ(共同体)を構成しています。そうしたコミュニティの構成員は、等しく、それぞれが構成するコミュニティに対して良い影響を与え、また、その存続の基礎となる地球環境の破壊を食い止めるべき責任を負っているという考えがESGやSDGsの根底にあります。

 

機関投資家を対象とするスチュワードシップ・コードの今回の改訂がサステナビリティ重視の姿勢を鮮明にしたことで、機関投資家の活動を通して、その対話の相手となる投資先企業のサステナビリティへの取組みが促進されることが予想されます。これによって、機関投資家の顧客・受益者が企業の持続的成長の果実を享受し、中長期的な投資リターンの拡大が図られることになれば今回の改訂の目的は達成されたということになるでしょう。

 

しかし、私は、それに留まらず、その後の連鎖があることを期待しています。つまり、企業がサステナビリティの課題により一層取り組むようになることで、その企業から製品やサービスの提供を受ける私たち個人のこの課題に関する意識にもポジティブな変化を生じさせることになるのではないか、そうだとすれば、このような個人の意識の変化が、個人を顧客・受益者とする機関投資家のサステナビリティ重視の姿勢をさらに強めることになり・・・というように、サステナビリティの課題解決を巡る好循環がもたらされることになれば、今回のスチュワードシップ・コードの改訂はより意味のあるものになると考えています。この好循環を実現するために、私たち個人一人ひとりがサステナビリティの課題解決に向けて極めて重要な役割を担っていることを理解し、その理解を日々の様々な行動に反映していくことが求められています。

荒巻 慶士

UPDATE
2020.01.06

その他

保釈中の被告人の逃亡

年末年始は大きなニュースが続いた。 

考えさせられたのは、カルロス・ゴーン氏の海外逃亡と米国によるイラン革命防衛隊司令官の殺害の報道だ。

 

 司法に関わる者からみると、ゴーン氏の国外脱出というのは実に恥辱的で、弁護人は絶対に逃げないと大見得を切って保釈を勝ち取ったのだろうから、穴があったら入りたいという気持ちだろうと思う。逃げないと約束すると言われて手を放したら走り出したというようなマンガみたいな話だ。

 

 ゴーン氏は、正義から逃げたのではない、不正義から逃れたのだという。弁護人が依頼者に対し、日本の刑事制度はおかしいと力説したことは想像に難くない。刑事手続になじみのない外国人が、身柄拘束下において唯一自由に会うことのできるその世界のプロから、そのような話を何度も聞いて不正義だと認識を強めて、それが逃亡の口実となったのではないかと考えると、非常に残念なことだ。

 日本の刑事司法が世界的な広がりをもって議論されているのも、この国が新たな時代を迎えていることを示すものだろう。例えば、取調べに弁護人の同席を許さないというのは、欧米からみると常識に反することになる。グローバル社会の中で、その正当性を堂々と主張できるのか、そういう検証が必要だと思う。

 

 もう一つのニュース、米国による暗殺だが、戦争の端緒となりうるものだ。戦争は殺人を合法化するとはよく耳にする。もう少し考えると、戦争にも正当化される場合と正当化されない場合があるはずだ。しかし、それを判断するための制度は十分ではない。

後藤 慎吾

UPDATE
2019.12.23

その他

生と死のあいだ

バックパッカーとして世界中を旅した人のエッセイなどを読むと、人生観に最も影響を与えた場所としてインドのバラナシというガンジス川のほとりにある街を挙げる人が多いことに気づきます。

 

10年以上前のことですが、私はバラナシを訪れたことがあります。インドのニューデリーに駐在していた友人を訪ねたその数日後、その友人から飛行機のチケットを手渡されました。彼曰く「バラナシに行かないとインドに来た意味がない」とのことでした。

 

バラナシは、インドの人口の約8割が信者であるヒンドゥー教の聖地であり、インドの各地から死期が近づいたヒンドゥー教徒がバラナシを訪れ、そこで死を迎えるのだそうです。ガンジス川の河川敷を散策していると、キャンプファイヤーで見るような井桁積みにした薪のうえに遺体が焼かれ、親類縁者が遺体を取り巻くようにしてその焼かれる様を黙って見つめていました。ここで焼かれた遺体はガンジス川に流され、やがて自然に還っていくのです。この一連の葬送儀礼は、この街のいたるところで見られる光景でした。

 

このようなバラナシの日常が示唆するのは、生の延長線上に死がある、というあまりにも当然の事実です。当時の私は、人の死に直面した経験も少なく、自分の死がいつか来ることを意識したこともありませんでしたが、この街は否応なしにその事実を突きつけるのでした。バラナシがこの地を訪れた人々に深い感銘を残すのは、それぞれの心にこのような気づきを与えるからなのでしょう。

 

早いもので今年も残りあとわずか。人はなぜ生きるのか、限りある生を意義のあるものにできているか、そもそも生に意義を求めること自体詮無いことなのではないか・・・今年あったことを振り返りつつ自らに問うてみたいと思います。

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