後藤 慎吾

UPDATE
2018.04.09

その他

日本橋

日本橋を歩いて、出勤しています。

 

私の人生で最初に日本橋を歩いたのは24歳のときのことです。司法修習生になった春のことで、当時お付き合いしていたガールフレンドと休日に銀座でランチをした後に、散歩がてら、銀座の中心を通る中央通りを当てもなく歩いていきました。しばらくすると、突然、高速道路の高架が現れ、その下には石畳の立派な橋が架かっていました。

 

高架の中央には達筆な文字(後で知りましたが徳川慶喜の書だそうです。)で日本橋と書かれた看板が掲げられ、その下にある橋が日本橋であることを知りました。埼玉の田舎者であった私には、「これが日本橋かぁ」と、ある種の感慨を感じると同時に、違和感が込み上げてきました。高速道路の高架に押さえつけられ(隣に架かる西河岸橋から日本橋を眺めると抑圧された感じがよくわかります。)、この街の主役であるはずの日本橋が単なる人の往来を可能にするための有体物に堕したように思われたのです。開高健は、日本橋を見て「橋を渡るのではない。ガード下をくぐるのである。」と評したそうですが、まさに言い得て妙。「なんだか残念だね。」とガールフレンドと言い合ったのを覚えています。

 

現在、国土交通省で、日本橋の上に架かる首都高速道路を地下化する構想が検討されています。これまで何度か提案されたものの実現してきませんでしたし、数千億円程度の事業費がかかるそうで、今回も紆余曲折が予想されます。

 

慣れというのは怖いもので、毎日のように日本橋を往復している私は、あの時に感じた違和感を覚えることはなくなりました。ただ、日本橋には毎日のように多くの観光客が訪れます。これらの人々の顔を見るにつけ、その多くが、少し釈然としない気持ちになっているのではないか、と想像しています。日本橋界隈で働く者の一人として、いつか日本橋に青空が戻ればいいな、と思っています。

荒巻 慶士

UPDATE
2018.03.17

その他

桜咲く季節に

  地下鉄に乗ってもよかったのですが、歩いて帰ることにしました。ひと月先を思わせる陽気に誘われたか、事務所に戻れば待っている少し重たい案件がそうさせたのか。遠くから、すでに枝は全体に赤みを帯びて、こぼれるように咲きはじめている桜を愛でながら、通りすぎました。振り返ると、みな道すがら、見上げては、つかの間の花見を楽しんでいるようでした。

 

 3月といえば、学校は卒業式、会社は異動の季節。一つの年度が終わり、節目迎えて別れがある。そして4月には新たな出会いが待っています。毎年決まって咲く桜とともに、だれにも公平に流れる時の移ろいを思わせられる季節です。ただ、唯一、亡くなった者だけが、わたしたちの記憶にある在りし日のままに止まっている。

 

 東日本大震災が3月に起きたのは偶然であったとしても、花咲くこの時期に、その記憶が呼び起こされるのは理由がある。それは、わたしたちの将来に向けて、天が与えた一つの契機であり、ヒントであるように感じられます。

 

 戦争を体験した世代が、8月の夏空を見上げて呼び起こす思いに重なる、時の流れと止まる記憶。地下鉄に乗っていたら(仕事から逃げていなかったら?)、わたしたちは憲法を変えるのか、原子力発電所を動かしつづけるのか、国外にも輸出するのか…、この日想起しなかった問いかけです。

 

 

後藤 慎吾

UPDATE
2018.02.05

その他

丸善の二階

私たちの事務所は日本橋室町にあり、事務所に出勤する際には、バスで八重洲まで来てそこから中央通りを神田方面に向かって15分程歩いています。その途中に、丸善日本橋店があります。その2階に法律書が置いてあり、時間があるときにはそこに立ち寄ってから事務所に行くこともしばしば。昨年4月に発売された私の本は何故か未だに面陳列(本を棚に立てて、背ではなく表紙を見せて陳列する方法をこういうそうです)で置いてあります。いつ見てもうずたかく積みあがっていて誰かが買ってくれた気配はないのですが・・・。

 

さて、事務所を立ち上げてから2年が経とうとしています。ようやく読書をする余裕ができたので埃をかぶったkindleを引っ張り出して、今年に入ってから久しぶりに夏目漱石や芥川龍之介を読んでいます。子供のころから親しんできたせいか、ふと何か読もうと思うと最初に手を伸ばすのはいつも決まってこの二人なのです。

 

ところで、在りし日に師弟であったこの二人の文豪の最高傑作とも称される二つの作品の中には、共通する書店の名前が出てきます。

 

つまり、夏目の「こころ」には

 

「私はこの一夏を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善の二階で潰す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。」

 

とあり、また、芥川の「歯車」の第三章「夜」は、以下のような書き出しで始まります。

 

「僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三頁ずつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。・・・

 日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかった。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよって行った。・・・」

 

それでは当時の「丸善の二階」はどういうところだったのでしょうか?

田山花袋はその名も「丸善の二階」という作品でこう書き表しています。

 

「十九世紀の欧州大陸の澎湃とした思潮は、丸善の二階を透して、この極東の一孤島にも絶えず微かに波打ちつつあつたのであつた。

 丸善の二階、あの狭い薄暗い二階、色の白い足のわるい莞爾した番頭、埃だらけの棚、理科の書と案内記と文学書類と一緒に並んでゐる硝子の中、それでもその二階には、その時々に欧州を動かした名高い書籍がやつて来て並べて置かれた。・・・」

 

丸善の二階は、夏目や芥川といった当時の文化人にとって、真新しい海外の思惟に触れることのできる特別な場所だったのでしょう。情報通信技術が発達し、ブラウザを通して国内外の情報をいとも簡単に入手できる現代の丸善の2階には「欧州を動かした名高い書籍」は並んでいません(ちなみに現在は3階に洋書売り場があります)。その代わりといってはなんですが、煌々とした照明のもとで書籍が整然と並べられた塵一つない書棚に、私の本が、引き取り手が現れるのを待って今も所在なげに佇んでいます。売れ残っている風なのは少々考えものですが、その姿を見るにつけ、私の愛する二人の文豪との時空を超えた微かな接点を感じるようで、少しうれしくなる自分がいるのでした。

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