後藤 慎吾

UPDATE
2018.06.13

その他

最善手

先日、自宅近くで催されている将棋教室で高野智史四段に将棋をご教示いただきました。たまたまその前の週に、NHK教育テレビで毎週放映されているNHK杯選で高野先生が永瀬拓矢七段に快勝されたのを拝見していたので、こちらは勝手に緊張しながら指しました。高野先生の飛角桂香6枚落ちでしたが、その一手一手に、ああそうか、と思わされることがあり、とても勉強になりました。

 

将棋は、一戦一戦に必ず勝者と敗者が存在することになります。勝ち負けを競うことを職業とする人のことを勝負師といいますが、まさに棋士はその代名詞です。翻って、私たち弁護士が日常取り扱っている訴訟も、この業界以外の方からしてみれば、勝訴と敗訴に分かれることになり、勝ち負けがはっきりする仕事だと思われるかもしれません。しかし、将棋の世界とは相当に様相が異なります。

 

まず、将棋は棋士の実力だけが勝敗を分けることになります。対局が始まるときには、先手・後手の駒の配置は全く同じであり、そこからどのように陣形を組み立てていくかはその棋士次第です。それに対して、訴訟では、弁護士が依頼者から相談を受けた段階で、そこで説明を受けた事実関係や証拠資料から事件の見通しがつき、勝敗がある程度予想できることも少なくありません。

 

また、将棋は勝ち負けが必ずつきます。それに対して、訴訟では、必ず判決で100%の勝ち負けが決まるというわけではなく、例えば、民事訴訟では一部認容(勝訴)判決が下されることもありますし、判決の前の段階で原告・被告間の和解(合意)により、一方が70%勝ち、他方が30%勝ち、というような解決の仕方が採られることもあります。当事者間で紛争になり弁護士が介入するような事件では、双方ともに相応の言い分を有している場合もあるのです。

 

このように将棋と訴訟とでは勝敗のつけ方が異なるわけですが、私は、訴訟などの紛争解決の依頼があった場合には、事実関係や証拠資料から的確に見通しをつけ、たとえそれが依頼者にとって不利なものであったとしても、そこであきらめず、できる限り有利な方向に導けないかを考えるようにしています。将棋の用語で最善手という言葉があります。その局面において最も良い手という意味であり、棋士は対局において常に最善手を繰り出そうと必死になって読みを働かせるのです。この点は弁護士も同様であり、私は、問題となっている事件において依頼者のために最善手が何であるかを粘り強く探ることを心がけています。

後藤 慎吾

UPDATE
2018.04.09

その他

日本橋

日本橋を歩いて、出勤しています。

 

私の人生で最初に日本橋を歩いたのは24歳のときのことです。司法修習生になった春のことで、当時お付き合いしていたガールフレンドと休日に銀座でランチをした後に、散歩がてら、銀座の中心を通る中央通りを当てもなく歩いていきました。しばらくすると、突然、高速道路の高架が現れ、その下には石畳の立派な橋が架かっていました。

 

高架の中央には達筆な文字(後で知りましたが徳川慶喜の書だそうです。)で日本橋と書かれた看板が掲げられ、その下にある橋が日本橋であることを知りました。埼玉の田舎者であった私には、「これが日本橋かぁ」と、ある種の感慨を感じると同時に、違和感が込み上げてきました。高速道路の高架に押さえつけられ(隣に架かる西河岸橋から日本橋を眺めると抑圧された感じがよくわかります。)、この街の主役であるはずの日本橋が単なる人の往来を可能にするための有体物に堕したように思われたのです。開高健は、日本橋を見て「橋を渡るのではない。ガード下をくぐるのである。」と評したそうですが、まさに言い得て妙。「なんだか残念だね。」とガールフレンドと言い合ったのを覚えています。

 

現在、国土交通省で、日本橋の上に架かる首都高速道路を地下化する構想が検討されています。これまで何度か提案されたものの実現してきませんでしたし、数千億円程度の事業費がかかるそうで、今回も紆余曲折が予想されます。

 

慣れというのは怖いもので、毎日のように日本橋を往復している私は、あの時に感じた違和感を覚えることはなくなりました。ただ、日本橋には毎日のように多くの観光客が訪れます。これらの人々の顔を見るにつけ、その多くが、少し釈然としない気持ちになっているのではないか、と想像しています。日本橋界隈で働く者の一人として、いつか日本橋に青空が戻ればいいな、と思っています。

後藤 慎吾

UPDATE
2018.02.05

その他

丸善の二階

私たちの事務所は日本橋室町にあり、事務所に出勤する際には、バスで八重洲まで来てそこから中央通りを神田方面に向かって15分程歩いています。その途中に、丸善日本橋店があります。その2階に法律書が置いてあり、時間があるときにはそこに立ち寄ってから事務所に行くこともしばしば。昨年4月に発売された私の本は何故か未だに面陳列(本を棚に立てて、背ではなく表紙を見せて陳列する方法をこういうそうです)で置いてあります。いつ見てもうずたかく積みあがっていて誰かが買ってくれた気配はないのですが・・・。

 

さて、事務所を立ち上げてから2年が経とうとしています。ようやく読書をする余裕ができたので埃をかぶったkindleを引っ張り出して、今年に入ってから久しぶりに夏目漱石や芥川龍之介を読んでいます。子供のころから親しんできたせいか、ふと何か読もうと思うと最初に手を伸ばすのはいつも決まってこの二人なのです。

 

ところで、在りし日に師弟であったこの二人の文豪の最高傑作とも称される二つの作品の中には、共通する書店の名前が出てきます。

 

つまり、夏目の「こころ」には

 

「私はこの一夏を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を丸善の二階で潰す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。」

 

とあり、また、芥川の「歯車」の第三章「夜」は、以下のような書き出しで始まります。

 

「僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三頁ずつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだった。・・・

 日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかった。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよって行った。・・・」

 

それでは当時の「丸善の二階」はどういうところだったのでしょうか?

田山花袋はその名も「丸善の二階」という作品でこう書き表しています。

 

「十九世紀の欧州大陸の澎湃とした思潮は、丸善の二階を透して、この極東の一孤島にも絶えず微かに波打ちつつあつたのであつた。

 丸善の二階、あの狭い薄暗い二階、色の白い足のわるい莞爾した番頭、埃だらけの棚、理科の書と案内記と文学書類と一緒に並んでゐる硝子の中、それでもその二階には、その時々に欧州を動かした名高い書籍がやつて来て並べて置かれた。・・・」

 

丸善の二階は、夏目や芥川といった当時の文化人にとって、真新しい海外の思惟に触れることのできる特別な場所だったのでしょう。情報通信技術が発達し、ブラウザを通して国内外の情報をいとも簡単に入手できる現代の丸善の2階には「欧州を動かした名高い書籍」は並んでいません(ちなみに現在は3階に洋書売り場があります)。その代わりといってはなんですが、煌々とした照明のもとで書籍が整然と並べられた塵一つない書棚に、私の本が、引き取り手が現れるのを待って今も所在なげに佇んでいます。売れ残っている風なのは少々考えものですが、その姿を見るにつけ、私の愛する二人の文豪との時空を超えた微かな接点を感じるようで、少しうれしくなる自分がいるのでした。

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