荒巻 慶士

UPDATE
2017.05.30

最近の法律関係情報

憲法改正の必要性

 今月3日の憲法記念日に首相が2020年に改正憲法を施行するとの考えを表明し、マスコミの中にもこれに賛同する論調が見られました。その後、首相が示した9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという提案について、賛成が半数を超えたという世論調査の結果も報道されています。右とか左とか、安易にレッテルを貼られることに抵抗感があって、政治的にわたる言葉には慎重になりがちですが、まさかと思ううちに、あれあれ、おいおいという感覚の下に、法律の専門家として、意見を述べておきたいと思います。

 それは、現憲法を改正する必要はまったくないというものです。現在、改正すべき点として議論されていることのほとんどは、法律レベルで対応すればよいことで、中にはそれすら不要、単に政策として実行すればよいというものもあります。高等学校の義務教育化はそういったものの例です。また、首相の提案する自衛隊の明文化についても、今や、自衛隊という名前の組織を違憲と考える人はほとんどいないでしょうから、その必要性は低いと言わざるを得ません。首相は、多くの憲法学者が自衛隊を違憲と言っていると述べているようですが、それは自衛隊のあり方が問題とされているのではないでしょうか。自衛のための組織としてのあり方については、その組織の存在とは別に不断に問われるべきものでしょう。

 憲法の改正が法律の改正とは異なるポイントが2つあります。まず、憲法は、国家と国民の関係を規律し、国家権力を抑制しているものであるということです。例えば、民法は私人と私人の間のルールを定めていますが、こういった下位の法律とは性質が異なることに留意が必要です。憲法上、国家は国民の権利・利益を擁護すべき存在であり、権力の行使についていわば手かせ足かせをはめられています。したがって、権力の側にいる政治家がこれを変えようとする動きには、注意が必要といえます。憲法が制度化している三権分立の仕組みに則って、裁判所は、議員定数不均衡に関して、何度となく、違憲性を指摘してきましたが、これを是正しようと動きは政治の側において遅々として進まなかった現実があります。このような政治家が憲法を大切にしこれを良いものにしようとしてくれると信頼できるかというと、相当な疑問があるというほかないように思います。

 2つ目のポイントとして、憲法を押さえておけば、三権分立の下、司法の牽制が働くということです。憲法に違反する法律改正に対して、裁判所はその効力を失わせることができます。ところが、憲法自体を変えられてしまうと、違憲審査のよるべき基準が変わるので、もはや司法により是正ができなくなるのです。

 このように、憲法は変えにくいことに意味があり、改正については慎重のうえにも慎重に、政治への十分な信頼を基礎として、強い必要性が認められる場合に行うべきだと考えます。自衛隊は災害時に頑張っているから、明記してあげても…などという次元の話ではないことをよく理解する必要があります。改憲より注力すべき立法政策課題は、たくさんあるのではないでしょうか。

 

荒巻 慶士

UPDATE
2017.03.19

その他

春に3.11を思う

 もうすぐ春が来ます。

 4月は残酷極まる月、と歌ったT.S.エリオットの「荒地」は、私の中で、福島の被災地と重なります。雪を溶かす雨が、芽を吹かせ、「鈍い根をかき回す」…。

 6年前の3月11日、私は富山・高岡の裁判所に出張中で、和解を成立させた帰り道、特急は糸魚川で立ち往生し、そこで下車させられた私は、来た方向へ向かう列車で富山に引き返さざるを得ませんでした。そして、その車内で聞く乗客のひそひそ話により、非常に大きな地震が起きたことを知りました。

 駅員は、明日は上越新幹線も動くでしょう、と話していましたが、一夜明けても動く気配はありませんでした。週末で、東京に帰る必要はなかったのですが、私は、「故郷」である東京に帰りたくなり、たどり着いた空港で、キャンセル待ちをして、羽田行きの切符を手に入れました。静まり返った町を抜けて戻った自宅は、うず高く積まれていた本が崩れるなど、物が倒れているくらいで、無事でした。原発事故は報道されていました。実はメルトダウンしていたのですが、それを知る由はありませんでした。私たちは知らされていなかったからです。

 被災地から離れていても、だれもが、それぞれに3.11の記憶を持っています。あの日、被災しなかったのは偶然にすぎない、という思いがあります。あれ以来、私たちは、無邪気でいられなくなり、大人びてそれでいて不安げな子どものように振る舞っています。

荒巻 慶士

UPDATE
2017.01.31

その他

福島原発事故から6年を迎えて思うこと

  この時期になると思い出す出来事に2つの大震災があります。

 先日、福島第一原発事故による被災者の自殺に関するレポートをテレビで見ました。避難先からいち早く故郷に帰り、張り切って農業を再開した夫婦がこのほど心中したとの報告でした。テレビカメラに向かい、以前と同じようにできればと、少しはにかみながら並んで希望を語るかつての姿も紹介されていて、胸にとても堪えました。東日本大震災から6年を迎えようとしている今、周囲の関心の薄れ、被災者の孤独の深まりを番組は伝えていました。

 電通の新人女性が自ら命を絶った事件により、昨年来、過労自殺に改めて焦点が当たっています。過労自殺の原因には長時間労働があるとされていますが、長時間労働とうつ病発生のメカニズムには未解明の点が残されているといいます。社員の労働力を利用するには危険が伴い、またこれにより事業を拡大し利益を得ている会社では、こうした危険責任や報償責任の考え方もあって、長時間労働が認められると、社員の自殺につき責任に問われる傾向があります。ただ、過労自殺の背景には、単なる長時間労働ではなく、孤独や孤立の闇を感じることは少なくありません。

 翻って、福島第一原発事故は、だれに、どのように帰責するのでしょう。故郷喪失ともいうべき被害の大きさ。耐えきれぬ責任の重さに、途方に暮れるばかりです。原発につき起り得るいかなる事態も制御できる態勢を作り上げることは困難というほかなく、原発事業を行う東芝の子会社が、規制の強化に伴い、多額の損失を出したことが最近明らかになったところを見ても、原発を維持する経済的合理性にも疑問を感じざるを得ません。原発の利用については慎重にというのが、健全な常識であると思います。

 さて、自分が被災者のためにできること? 法律相談のボランティア? 平凡な思いつきしかできないのが、歯がゆい限りです。

 

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