荒巻 慶士

UPDATE
2019.09.30

その他

懐かしくて新しい出会い

 高校生のころ、斜に構えていたから、文化祭とか体育祭とか〝青春〟めいたものが嫌だった。その後、いろいろなことがあり、大抵のことは受け入れるようになり、視野も広がって、何事にも興味を持てるようになった。さまざまな人と出会う弁護士という仕事、その前に就いていた新聞記者の仕事も、こうした心境の変化を与えたと思う。

 そういうわけで、この夏開かれた出身高校の同窓会に、初めて出かけた。といっても、これまでそのような会が行われていることも知らず、今回は幹事のメンバーが同窓会名簿を使って、広く呼びかけてくれたということだ。

 

 当時バンドを一緒に組んでいて、行くのを約束し、会うのを楽しみにしていた仲間、思いがけず再会できたクラスの友だち…。長い人では、まさに卒業以来だから、30年以上会っていないことになる。

 その年月を埋めるには、あまりにも短い時間ではあったが、会ってみれば呼び捨てで、忘れかけた記憶をみなでつなぎ合わせては笑い、会が終わるころには、すっかり高校生に戻った気分だった。

 

 不思議だったのは、級友たちは、街で会ったとしたらわからないだろうのに、顔を合わせて話してみれば、話し方、物腰、当時のままで、そのまま歳月を経た風貌なのだ。「○○か、まったく記憶にないけだ、身体が覚えてるよ」、と声を上げた友人がいた。

 まさにそういう感じ。そういえば、こう話した友人は、昔から、言うことに感覚の鋭さがあったっけ。無垢な心で、見、聞き、感じていたあのころがよみがえる。お前も結局、変わらないと言われた。

 

 友だち、そして自分にも、懐かしくも、新しい出会いだった。

荒巻 慶士

UPDATE
2019.07.21

最近の法律関係情報

許される懲戒とは

 民法822条は、親権者は、監護・教育に必要な範囲内で子を懲戒することができる、と定めている。こういう条文があることをご存知なかった方もいると思うが、今、この規定の改正が、削除を含めて、国会や法務省で検討されている。虐待に関する痛ましい事件報道に接するが、この懲戒権が虐待の口実にされているという。

 

 虐待に当たるような行為が、親権者による懲戒として正当化されるはずがないと思いつつ、民法の注釈書として古くから著名な注釈民法(新版)を紐解くと、「しかる・なぐる・ひねる・しばる・押入に入れる・蔵に入れる・禁食せしめるなど適宜の手段を用いてよい」と記載されているので、少し驚く。しかし、この後は、「目的を達するについて必要かつ相当な範囲を超えてはならない…必要かつ相当であっても、懲戒の方法・程度はその社会、その時代の健全な社会常識による制約を逸脱するものであってはならない」と、慎重に続けられている。懲戒権の内容も、時代が移り替わるとともに、解釈の変更があり得るということだ。

 この6月19日に、国会では、児童虐待防止法の改正法が成立し、その14条には、体罰が、監護・教育に必要な範囲を超えるものであることが明記され、懲戒として許されないことが明確になった。

 

 ところで、最近、自宅の近くで、「あんたは同じことを何度言われたらわかるの」と、母親が子どもに大きな声で問いかけるのを見た。「ねえ。聞いているの。ねえ」と、両肩をつかんでゆすり、なじるようでもある。これは、親の子に対する指導としてセーフか。無理はない、気持ちはよくわかる、そもそも懲戒(罰)ではないしね、と思う。最後に、「何度言われてもわからないあんたは、馬鹿なの」と言っていたら、どうだろう。

 家族法の世界から目を転じて、労働法の世界でも、懲戒というものがある。会社の社員に対する懲戒権を明示的に定めた法律はないが、一般的には、社内秩序を守るために懲戒はなし得るものとされている。しかし、肉体的に痛みを与える罰は論外ということになる。それでは、新人の肩をつかんで、上司が、「お前はいつまで同じミスをしているんだ。何回言ったらわかるんだ」と言ったらどうだろう。一定の手続の下で処分する必要があるという点は横に置いて、訓戒といった種類の懲戒もある。最後に「アホか」と言ったら? このようなやり方では、パワハラの誹りを受けて、逆に懲戒されかねないというところだろうか。

 

 企業内でも、かつては、鉄拳制裁というものがあった。しかし、今は、「愛のムチ」は、会社でも、家庭でも、許されない時代になった。さらに、表現や言葉遣いまでこまかく問題になっていくと、ちょっと窮屈にはなってくる。

 

荒巻 慶士

UPDATE
2019.05.26

その他

天皇制再考

 新元号が、令和と決まり、新たな時代が始まった。

 裁判所に提出する書面に、「令和元年」と書いてみて、気分が変わるのだから、不思議なものだ。

 かつてない10連休。この間、天皇や皇室に関して、連日に渡り報道がなされ、これほどに注目を集めたのは珍しいことだった。依頼者からもらったメールにも、一般参賀に出かけたと言葉があって、こうした時代の節目にあたり、天皇制について改めて考えさせられた。

 

 憲法上、天皇は政治性を持つことはできないこととされている。天皇は日本国の象徴であり、主権は国民にあることを、その第1条は定める。天皇のなしうる行為は、国事行為といって、判断の伴わない形式的なものに限定されている。

 それでは、退位・即位に際しての発言は、どうか。

 これが憲法の列挙する国事行為でないことは明らかだ。かといって、「象徴」は黙して語らないことしか許されないのか。そういう問題であるというわけだ。

 結局、話していることの中身が問題とされざるを得ないのだろう。政治性と切り離されていて、象徴として許されるもの。

 

 宗教性についても、皇室は神道の伝統の下にあるわけだが、「象徴」という国の制度に位置づけられる以上、政教分離原則の下では宗教性を持つべきではないことになる。そうなると、天皇の行う祭事は、皇室の私的領域でなされていると理解されることになる。

 しかし、天皇の私的領域とは何か。

 例えば、天皇には、職業選択の自由や居住・移転の自由といった憲法の保障は及ばない。女性は天皇になれず、皇室は男女間の平等も享受していない。国民と同様の権利は認められておらず、その私的領域すら曖昧なのだ。

 

 世論調査によると、国民の多くは今の象徴天皇制に肯定的であるという。確かに、昭和から平成、令和と流れた時代、制度はうまく機能しているように見える。ただし、先に述べたとおりに、象徴という捉えがたいものを正しく捉えて、知恵と深慮をもって接することを要する制度なのだと改めて思う。

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